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年別アーカイブ: 2019

さて話はガラッとかわりまして

オンラインゲームのプロジェクトに関わっていたころの話なので、たぶん2005年のことだったと思う。ゲームの開発はボストンのTurbineという会社がやっていた。そのゲームを日本語化して、こっちのデータセンターに置いたサーバ上で動かして日本のユーザに遊んでもらうというのが基本的なコンセプトだ。そのために仕様書をもらい、スペックを満たしたシステムを組んでいかねばならない。ある程度の自由は許容されているが、勝手をやってゲームのクオリティを下げるわけにはいかないのでエンジニアリングのチェックもあったりする。そういうわけでボストンへ出向いて打ち合わせもやるし、ボストンからエンジニアが来てこちらのシステムをチェックするということもあった。プロジェクトの間に、ボストンから日本へ、エクゼクティブも含めて10人ぐらい招いたと思う。

エクゼクティブはそれなりの接待を受けるが、エンジニアはエンジニア同士で、ということで、来日したTurbineのエンジニアの面倒は自分が見ることになった。当時は英語ができる社員があまりおらず、相対的に自分が、英語が得意な社員と見なされていた。これはまったく不合理な話だった。何しろ自分は高校生のとき、英語で留年しそうになったぐらい成績が悪かったのだ。そんな自分より英語ができないってどういうことだ? 全員留年したってことか? まったく不可解極まりない……。まあ実のところ、みんな英語で話をするのが恥ずかしいというだけのことなのは分かっていたので、それ以上は突っ込まなかったが。

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certbotがnginxサイトのrenewに失敗した話

さて当サイトはLet’s Encryptの認証を得ていて、毎週月曜日のバッチで更新チェックをやっている。Let’s Encryptの認証は3か月で切れてしまうので、期限のチェックと更新は大事なルーチンなのだ。だが、お約束というかなんというか、当サイトは3か月目の最初の更新に失敗し5時間ほど不通だった。

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g/RE/p

1998年、さくらインターネットの黎明期、自分たちはまだ自社データセンターを持っておらず、テレウェイ(今はKDDI)のラックを借りてサーバ事業を展開していた。当時はデータセンターという言葉は一般的でなく、電算機センターなどと呼ばれていた。サーバの設置をするためには、入局届をFAXで提出し、決められた時刻に身分証明書を持って行かなければならない。まあそういう厳しい手続きは仕方がない。困るのは、センターがラックと回線以外は何も貸してくれないということだった。たとえばサーバを設置するに当たっては、ディスプレイやキーボードやネジ留めのためのドライバーが必要になるが、そういうものはすべて持ち込まなければならなかった。当時のディスプレイはCRTが一般的で、液晶はまだ高かった。お金のないベンチャーとしては、1立方メートル当たり何万円もかかるラックの中に、普段使わない物を置いておけず、作業のたびにえっちらおっちらディスプレイを運び込んでいた。そして自分たちがラック貸し出し事業をやるんだったら、必ずディスプレイは無償で貸すことにしようと誓い合った。そういうわけでさくらインターネットのデータセンターには、そこかしこに貸し出し用のディスプレイとキーボードと、工具セットが置いてあるのだ。

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平均は7.5です、から始まるfloatの話

元ネタはこちら。

自分が書いたコードはこれ。

#include <stdio.h>

int main(void)
{
    int a = 10;
    int b = 5;
    printf("the average of a=10 and b=5 is %.1f\n", (a + b) / 2.0);
    return 0;
}

このコードをネタに、研究所のSlackで盛り上がったのが以下のネタだ。

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viとvimと互換性

viに初めて触れたのは1986年の頃だった。プログラミングの師匠に、Cでコードを書くならviが便利だと勧められたのだ。ところがそもそもviが動く環境がない。どうしたかというと、先輩の下宿に遊びに行くたびにPCを借り、プログラミングの手ほどきを受けるたびにviの使い方も習うという具合だった。自分で自由に使えるようになったのはPC-286v(これもPC-9800の互換PCだ)を買い、MS-DOSで動く互換viを手に入れた1988年だ。

メガネザルよりはるかに古いAT&Tのハンドブック

この頃は「MS-DOS SOFTWARE TOOLS」が出て、「MS-DOSを256倍使うための本」が出て、DOS環境をUnix化するのが(個人的な)ブームだった。SOFTWARE TOOLSのおかげで多くのコマンドがUnixぽくなった……が、問題はviだった。

この頃の自分にとってもっとも重要な事は、viがどの程度「本物」に近い動作をするか、ということだった。本物というのはもちろん、Bill Joyが作ったバージョンのviという意味だ。ただ、これを実際に使うことは非常に難しかった。1988年当時、Unixを触るには大学の計算機センターに行って端末の前に座るしかなかったのだ。何しろインターネットはまだ自由に使える時代ではなかったのだ。色々苦労してVAX11/785のアカウントを手に入れるのだが、それにしても徹夜でコードを書けるような環境ではない。そこで自宅のPCで、DOSで動く互換viを使うことになる。

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