自分はApple製のコンピュータはひとつも持っていない。コンピュータを触るようになってから大分経つが、自分で買って所有したことのあるApple製品は1台もない。こういうと、自分のことをよく知らない人には驚かれる。現代においてApple製品をまったく持たずにいるエンジニアがいるのか? そういう場合は「おじいちゃんの遺言で、Apple製品は使わないことにしている」と言ってごまかしている。
が、いつまでもこの話を逃げているわけにもいかないので、なんでAppleが嫌いなのかという話を、ちょっとまとめておきたい。
自分のマイコン史において、Appleとのかかわりは、最初にPCを買おうと検討し始めたときに遡る。1982年のことなのだが、当時はApple IIという製品があった。全世界的に売れている「すばらしい」PCだったが、値段が高すぎるという欠点があった。まあそれで、選択肢からは外れてしまった。それからしばらくの間、Appleはずっーと「高くて買えないメーカー」だった。一方で自分はPC-8001をいじり倒し、MS-DOSを覚え、Unixに傾倒するようになった。
Macintoshは1984年発表だが、すぐに人気商品になったわけではない。Wikipediaを見てみると、当初はメモリが少なすぎてアプリがまともに動かなかったようだ。自分が初めてMacintoshの実物を見る機会が巡ってきたのは1990年ぐらいのことだった。パソコン通信で知り合った友人が、MacintoshのProgrammer’s Workshopを触らせてくれたのだ。ただ、実はその前から、MacintoshとAppleのことはすっかり嫌いになっていた。
理由はAppleの広告だった。Appleは創業の早い時期から「自社が一番、他は邪悪」というコンセプトであらゆる種類の広告を打ち出していた。特に他社製品のユーザに対するdisり具合がひどかった。Appleを使うユーザはクールでカッコいいが、他社のPCを使うヤツは地獄へ落ちろと言わんばかり、いや本当に文字通り地獄へ行けと言っていた。これはステルスマーケティングでもサブリミナルでもなく、明確に打ち出されたメッセージだった。たとえばMacintoshのSuperbowlの最初のCMがそうだし、MacユーザとPCユーザが2人並んでコントを繰り広げるシリーズもそうだ(いちいちリンクを貼ったりはしない)。自分はあれを見て「ああ! 今すぐPCを売り払ってすばらしいMacintoshを買わなきゃ」なんて思うオヒトヨシではなかった。Appleって途方もなく邪悪な会社なんだなあ、さもなきゃよっぽど社会が憎いのかな、と感じていた。
一方、このAppleのコンセプトのせいで、disられる側として大変居心地の悪い思いをすることになった。なにしろ自分は典型的なPCユーザであり、黒い画面をにらんでワケの分からないコマンドを叩いているダサいユーザの筆頭であったからだ。そしてApple製品を使っていないという理由だけで、Apple製品のユーザからありとあらゆる罵詈雑言を浴びることになった。なんでPCなんか使うの? 黒い画面なんて見づらいじゃん? マウスのボタンが2つ(3つ)もあったら不便でしょう? フォントがダサくて読みづらいよ? ディレクトリなんて直観的でない、フォルダの方が簡単だよ! 何しろMacOSは先端の最新OSなんだ、すばらしいんだよ! ……さて問題は、それがうるさいということではない。実のところ、そのdisはあんまり正しくないということだった。
1990年当時、MS-DOSやUnixを使っていてよく言われた(今でも言われる)のが「黒い画面をキーボードでいじっている」だった。Macintoshユーザの決まり文句は「美しいディスプレイをマウスで操作する」で、そうでないユーザは(何度も繰り返しになるが)地獄行きということだった。
初めてMacintoshのプログラミング環境を触るに当たって、最初にした質問はこうだった。
「マウスだけでプログラミングできるの?」
「もちろんキーボードが要るよ」
「ま、そりゃそうだよね」
多くの人が誤解しているが、マウスはそれほど使いやすくない。たぶん現代の人なら、ようやく納得していただけることだろう。というのは現代においてはマウスは減退傾向で、タッチ・インターフェースがそれに代わりつつあるからだ。ただし、注意しなければならないことがある。今のタッチの宣伝のやり方は「タッチが最高、他は最悪」だ。これはまずい。30年前、Appleは「マウスが最高、他は最悪」と同じ調子で言っていた。これと同じ間違いだ。「タッチは大雑把に場所を示すには便利で、ピンチイン/アウトはすごい発明」というのは認める。だが同時に「マウスにはマウスの利点がある」「キーボードは文字入力とコマンド実行に向いている」も成り立つ。要するに、用途と場所・場合に応じた適切な使い分けが必要なのだ。短絡的に「最高/最低」とやってしまうと、いいことがない。そういうのは広告の宣伝文句に騙されているに過ぎない。
Appleは当時、宣伝では「マウスだけで何でもできる」と言っていた。だが現実は、もちろんキーボードが必要だった。そうでないと文字が入力できず、プログラミングも不可能だった。マウスはポインティングデバイスで、そのおかげでいろいろ面白いことができるが、だからといってMacintoshだけが先端ですばらしい機械だということではない。マウスも使い方を誤れば、使いづらくてひどいデバイスになり得る。そして実際に、アプリの方で使い方を誤っていて、ひどい出来栄えのソフトがたくさん出回っていた。ワンボタンマウスというのもひどい間違いだったが、ずいぶん長い間こだわっていたように思う。自分はAppleを熱心においかけていないので、いつ頃なくなったかよく知らない。今もMacのマウスはワンボタンですかね?
キーボードに関していえば、コントロールキーがないことも驚きだった。代わりにコマンドキーがあると教えられたが、これが実に疑問だった。
「コマンドキーって直観的?」
「さあ、どうだどう」
「そもそもこれってどういう働きがあるの?」
「コントロールキーとほとんど同じかな」
「じゃあコマンド+Cでコピーして、コマンド+Vでペーストするとか?」
「そう、そんな感じ」
コピーがコマンド+Cなのは、百歩譲っていいだろう。だが、ペーストがコマンド+Vなのはどう考えても欺瞞だった。そもそもUnixにおいてすら、どうしてCTRL+Vがペーストなのかは歴史的経緯でそうなっている、ぐらいの理由しかなかったのに、どうしてMacintoshがそれを採用しているのか。直観的に分かりやすくデザインするなら、コマンド+Pぐらいにしておけばよかったのに、なぜそうしなかったのだろうか。理由は分からなかった。そもそもコントロールキーと同じ機能を維持するんだったら、どうしてコントロールキーのままにしておかなかったのかが分からなかった。気取ったデザインのおかしな記号を作り出し、奇妙な位置に再配置し、ただ分かりづらくするだけ(PCユーザから見ると、単に使いづらいだけ)の効果しかない。改善とか改良ではなく、ただ単に違うようにしただけに見えた。
さてMacintoshに関する次の質問はこうだった。
「Macって結局のところ、マルチタスクなの?」
「正確には違うね」
「segmentation faultしたらどうなる?」
「爆弾が出るよ」
「どうやって復帰させるの?」
「リブートするしかない」
そういって友人は、実際にpanicを起こすコードを書いてデモを見せてくれた。Macintoshは、複数のアプリケーションが同時に動いているように見えたが、実際はアプリをスイッチしているだけで、マルチプロセス・マルチタスクで動作しているのではないという説明だった。メモリの保護などもそれほど強固ではなく、panicも簡単に起こせた。30年前なので詳細は忘れてしまったが、大体そんな説明だったと思う。
何より皮肉なのは、panic後のコンソール画面はDOSと同じ「黒い画面」ということだった。これには大笑いさせてもらった。背景を白のままに維持しておくぐらい簡単だと思うのに、なぜかデバッグは黒い画面を相手にキーボードで操作しなければならないのだ。それよりなにより、あれほどUnixは時代遅れだと腐していたのに、マルチプロセスすら実装していないというのには呆れた。
GUIについても議論をした。Appleは「直観的に操作できる」という言葉が大好きで、念仏のように何度も何度もこの言葉を使った。この時代に出会うMacintoshユーザは、3分に2回ぐらいは「直観的に使える」と言っていたと思う。この言葉は、DOSやUnixとのような専門家が使うコンピュータに比較して、覚えることが少なく、ぱっと見た目ですぐに使い始められるという意味で使われていた。というのも画面にはアイコンやシンボルが効果的に使われていて、見たものが意味するところは明らかだから、たいして考えなくてもすぐに使えるよという意味で「直観的」だという主張だったのだ。
だがしかし、現実はそんなに甘くはない。たとえばダブルクリックだ。この所作は、きちんと訓練しないと正しく行えない。マニュアルを読むとか、指示指導しないと習得できない技能なのだ。予備知識なしでマウスを渡しただけで、直感だけでこの動作を発見することは不可能だ。これはドラッグ&ドロップとか、範囲指定(複数アイコンを同時に選択する)とか、複数のアイコンを選択しつつ、いくつかは除外するとか、そういうことをやり始めた途端にますます直感から離れていくことで顕在化していく。
結局Macintoshを使いこなすには、結構な時間をトレーニングに費やす必要がある。もちろんその時間と難易度は、従来のPCに比べればずっと平易で短いかもしれない。だがコンピュータの概念そのものは決して簡単なものではなく、それらを理解し頭に入れるには困難が伴う。Macintoshを使ったからといって、そのハードルそのものが下がるわけではない。直観的という言葉は分かりやすいという意味で安易に使われていたが、実はちっとも分かりやすくはなかった。長いトレーニングを経て、Macintoshの使い方を身に着けてしまった人物が、自分の知識をひけらかすときに使う常套句として言うのが「直観的」という言葉だった。自分にとっては簡単ですよ、だからあなたも簡単に使えるでしょ? というのだ。
もっともひどい例が「フォルダ」だった。これはディレクトリを言い換えただけの単語だったが、なぜかMacintoshはディレクトリをフォルダと言い換えただけで「こちらの方が直観的で分かりやすい」と主張していた。実際にFinderを使ってみると、どこからどうみてもディレクトリにしか見えなかった。そもそも、現実世界でフォルダの中にフォルダを入れる操作は直観的ではありえない。再帰というのは抽象度の高い概念だからだ。逆にフォルダ概念を導入すると、ツリー構造が分かりづらくなりそうだ。それなのに、Macintoshは単にフォルダと言い換えただけで「これでいいんです!!!」と言い張るのだ。
万事こんな具合だった。
「これをどうやって直観で使えばいいの?」
「それは宣伝で言ってるだけ」
「まあ、そうだよね」
こうして一晩、Programmer’s Workshopを試したり、Hypercardをいじってみたりしたのだが、結局Macintoshのすばらしさは何も分からなかった。それよりも、自分がやりたいことをどうやってMacintoshにやらせるのか、ギャップが大きすぎてイライラが募るばかりだった。Macintoshを触らせてくれた友人は話の分かるやつで、自分が直観で触れるかどうかを試そうとしていると理解していたので、ワザと使い方を説明しないでくれていた。なのでFinderに対する愚痴を聞きながら「確かにFinderはひどいよね」と相づちを打つだけだった。
自分としては、バッチならば簡単にできることが、GUIではまったく不可能であることが不満だった。マウスのアクションとコマンドの実行を連動させる、よいソリューションがないからだ。Macintoshが本当に先端的なOSだったとしたら、この種の問題をどう解決しているのかということに興味があったのだが、 もちろんそれは未解決だった。この種の議論は、おそらく現代でも未解決のままだ。
というわけで自分のApple体験はこれが最初で最後だった。この後、何がどう間違ったのか、自分はCanonのゼロワンショップでMacintoshを売る立場になったりするのだが、Apple製品上で具体的にコードを書くような仕事は一度もしたことがないまま現代に至る。
現代のAppleに対する見解
さて現代のMacintoshはどうだろうか。MacOSは(さて今のMacOSを正確になんと呼んだらいいのか知らないのだけれど)その根源はUnixであり、昔のAppleを知っている自分から言わせていただくと「Unixに成り果てた」という感じがしなくもない。なんというかMacintoshは、自ら開いた地獄への穴に自分で落ちたという気がする。だがそれは自分で作り出した地獄であり、個人的には「よくきたね、まあ座んなよ」というところだ。さて、ではUnixマシンであるところのMacintoshなら、使ってもよいと思えるだろうか。
まず第一に、実のところMacintoshは値段が高くて魅力がない。第二にMacOSは正確にはUnixとはいいがたい。特定ハードウェアでしか動かず、自分がPCに求めたいダイバーシティもまったくない。Apple製品には、素晴らしいと思える要素は確かにある。だが選択の幅が狭すぎる。必要な部分を組み合わせて、不要な部分を取り除いて使うことができないので、無用に高いコストをかけて入手し、不要部分に目をつぶるしか方法がない。これらを勘案すると、どう考えても手に入れる利点がない。
そしてAppleの広告戦略はどうかというと、相変わらず「自社が一番、他社は邪悪」「自社を使うユーザがクール、他社を使うユーザは地獄行き」のままのようだ。そういう空気はたとえば「コンピュータって何?」というようなキャッチコピーに現れる。それがコンピュータでなければいったい何だというのだ。そういうすまし顔のウソをいう会社の製品は、どうしても使いたくないというのが自分の立場である。
追記(2020-02-07)
寿庵さんがこんな記事を公開された。
この中で、「panic後の黒い画面」についてご指摘いただいた。これについてはどうやら自分の記憶違いだったようで、謹んで訂正させていただきたい。本当のMacintoshの具合については、ぜひとも寿庵さんのブログをご覧いただければと思う。寿庵さんがいうなら間違いない。