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誰がゴミ穴を掘るか — チームとリーダーシップ

35年前、自分はボーイスカウトだった。いきなり脱線だがボーイスカウトというのは死ぬまでスカウトという誓いがあるので、「だった」というのは実は間違いということになる。だが、現在自分はスカウト活動は何もしていないので「だった」ということにさせていただく。ボーイスカウトというのは小学校6年生から中学生までの4学年に渡っていろいろな少年たちが集まっていろいろな活動をする団体だ。最近はどうだか知らないが、ボーイスカウトは軍隊的な組織をモデルに作られている。つまりカーキ色の制服を着て、6、7人ぐらいの班に分けられ、班長と次長が任命される。班長が班のリーダーだ。班が4から8ほど集まって隊が形作られる。自分はベビーブーマーなので、それはそれはたくさんの隊があった。昔はボーイスカウトは人気があったのだ。班長を束ねるのは隊長ということになるが、これは大人がやる。隊長以外にも多くのボランティアや保護者のサポートがある。指導者にはボーイスカウト連盟の研修を必要とする役職もあったりして、それはそれで結構大変だが、まあそれはおいとこう。本稿で紹介したいのはボーイスカウトの班の話だ。

1962年当時の親父の職場(本文とは関係ありません)

小学校6年生の自分が最初に配属された班の班長は、おっとりとしたインドア派で、キャンプのリーダーには向いてなさそうな人だった。制服の着こなしもいまいちで、配属されたとき、他の人がよかったなあと子供心に思うほどだった。

夏のキャンプに行ったとき、その予感は的中した。キャンプの準備というのは、日が暮れて真っ暗になる前にすべてを済ませなければならない。つまりテントを張り、食事を用意するのだが、そのテントというのはポップアップで簡単に張れるようなものではないし、食事だって石でカマドを組んで薪を割り、火をつけて飯盒スイサンするのだから、カレーを作るんだって2時間はかかる。テキパキやらないといけないのだが、新しく配属されたばかりの自分は、やる気はあるものの何をどうしていいのかさっぱり分からない。同じ年の友人も似たようなものだ。2、3歳上の先輩たちは、楽しい仕事は率先してやるが面倒で汚れる仕事はしたがらない。そういうわけで、なかなか捗らないのだ。

そのうち、遠くから「しえきー」という声が聞こえてきた。テントを張るために柱を支えていた自分に、班長が「お前行ってこい」と言う。

「『しえき』ってなんですか」
「いいから行ってきて」

そこで、呼ばれた方へ行ってみると、そこにはベンチャースカウト(高校生の指導役の先輩たち)がいた。そして各班から呼ばれた連中に向かって「おまえらテントを張れ」という。要するに「使役」のことだった。なんか体育会系の流れがあって、ベンチャーはボーイスカウトをこき使っていたのだ。

自分たちが寝るわけではないテントを張って、日が暮れたころに自分の班に戻ってみると、まだ晩御飯はできていなかった。それどころか班長から別の仕事をいいつけられた。

「穴掘ってきて」
「穴って何ですか」
「ゴミを捨てる穴だよ」

よくわからずに、掘りやすそうな場所を選ぼうとすると、そんな場所はだめだ、臭いからなと、遠くの方を指定された。しかしそこは下生えも多くて掘りづらい。おなかも減っているのに辛い穴掘りをさせられて、実にいやな気持ちになった。

結局、散々苦労してゴミ穴を掘り、トイレの穴も掘らされた。そのあとようやく食事にありついたが、飯盒で炊いた米は芯が残っている上に焦げていてひどい味で、しゃびしゃびのカレーは実にまずかった。ちなみにしゃびしゃびというのは水が多すぎて味が薄い汁っぽいカレーのことをいう名古屋弁だ(この経験のせいで、その後のスープカレーブームでもなんだかおいしく食べられないのだった)。さて食事の後、汚れた食器と鍋を洗う仕事を押し付けられた。先ほど自分で掘ったゴミ穴に、バケツで組んだ水を使って、残飯とコゲを流し落とすのだ。しかも次長がチェックに来て「おまえらそんなに浅い穴じゃキャンプが終わるまでにあふれるだろ!」と怒るのだ。

というわけで、とにかくボーイスカウトでのキャンプ体験はひどかった。班や隊の先輩たちが、年齢が上だという理由だけで威張りちらすのに耐えられなかった。先輩たちは炊けたご飯でも一番いいところを取っていき、焦げを後輩たちに食わせていた。寝るときは、過ごしやすい奥の方を取って、ひっきりなしに邪魔される出入り口の方に後輩たちを追いやった。彼らが少しでも優秀ならば、まだよかった。しかし実のところ、そうではなかった。なぜ班長や次長は、優れた技能を持つものが選ばれるのではないのか、これが不思議でならなかった。そして自分が班長になったら、こんなことはしないぞと心に誓った。

3年後、自分たちが最年長になると、結果的に周りは全員後輩ということになった。自分は班長になり、新入りを迎え入れてキャンプに行くことになった。では自分はどんなリーダーになっただろうか?

誰かがテントを張り、誰かがカマドを作り、誰かが薪を割り、火をつけ、米を炊く。誰かがゴミ穴を掘り、自分が寝るわけでもないテントを張りに使役に行かねばならない。それらの作業ができるものを割り当てていくと、自然に年長者から選ばれていくことになる。さて、ゴミ穴をどうするか? 結局自分も、他に何もできない年少者に命じて穴を掘らせるしかなかった。自分はといえば、飯盒でご飯を炊くのに熱中していた。このころには、米に芯を残さず焦がさずに炊く技を身に着けていたので、隊の中で一番おいしいご飯を炊けるやつになっていたのである。そういうわけで飯盒炊爨は他人に任せられなかったのだ。

というわけで結局、やっていることは先輩たちとだいたい似たようなものだった。違ったのは、これは必要な作業だと説明することと、ちょっと手本を見せて続きをちゃんとやるように頼んだことと、晩御飯のカレーはちゃんと作って、コゲなど食べさせないようにしたということだった。ただ果たして、下級生たちが不満を抱かなかったかどうかは分からない。感想は聞かなかったので。

でもこのとき、隊員は全員平等だと宣言する気はさらさらなかった。全員立場は同じなんだから、各自自分がやりたいことを好きにやれ、とは言わなかった。命令する権利を放棄してしまったら、夜になっても寝床も食事もなくひどいキャンプになるだろうと思ったからだ。他人に、自分だってやりたくないと思うことをやらせる、ということは嫌な体験だが、やらせないと終わらない。なので嫌でもやるしかない。自分は合理的な理由と納得のいく説明さえあれば、上下関係を受け入れること・利用することに問題はないと考えていた。しかしそれを運用するのは大変なストレスだった。

中学生当時、このストレスを避けるために、命じるよりも自分でどんどんやってしまう傾向が強くなった。これはこれで、隊員たちのやることが減ってキャンプが楽しめないという問題が生じるのだが、そんなことにまで気が回らなかった。とにかくキャンプを終わらせようと必死だった。

ヒエラルキーとかフラットとか

ボーイスカウトの体験や、並行して中学校での水泳部の部活体験なども経て、自分は日本式の年功序列制度に辟易してしまった。自分が体験した水泳部はそれほどハードな体育会系組織ではなかったが、結局のところ「年齢が上だというだけの理由で年齢上位が先輩風を吹かしまくり、年下がいじめられる」という構造は変わらなかった。何より年功序列は、新しい組織に移るたびに、どこからともなく年長者が現れ、先輩風を吹かせ始めるのが嫌だった。そうなるとどんなに素晴らしいチームを築いても全部台無しだ。そういうことで、これより後に運動系の部活動には一切関わらないようになった。

そしてちょうど同じ頃コンピュータに出会い、プログラミングを始め、すぐにこれに傾倒するようになった。市井のプログラミングのいいところは「そもそもコンピュータを知っている年功者がおらず、先輩風を吹かせるヤツが全然いない」ということだった。当時のプログラミングは「自分一人で何でもできる」というのが最高にすばらしく、大変な魅力だった。プログラミングはキャンプに似て、すべての段取りは綿密に行う必要がある。テントを張ったりキャンプファイヤーをする楽しみもあれば、ゴミ穴を掘ったり埋めたりするつまらない作業もある。しかしすべて自分一人でやるので、文句も何もない。失敗もまた自分の責任だが、それに対して文句はなかった。プログラミングの修業を続けていくうちに、尊敬できる先輩や友人も見つけた。才能のある後輩さえいた。これらの人たちは才能や能力がすばらしいからこそ尊敬されているのであって、決して年齢によって順序が決まるわけではなかった。プログラミングの世界は、そういう感じだった。

ただ、こういう自由は自分1人でプログラムを書きあげていられるうちしか通用しない。たとえば友人と2人で1つのプログラムを作ろうということになると、アイディアを出し合ったり役割を分担したりするわけだが、そこでは「自分のやりたいこと、相手がやりたいこと」が衝突する。そのときに「自分のアイディアをやることにして、そっちはがまんしてな」とか「そっちの方がよさそうだから、こっちはひっこめるよ」と言い合える仲ならいい。だがそうでないと、いろいろ困る。いや、言い合えるほど仲がいいと、後で困ることもある。後になって喧嘩してしまったりして、やっぱり一緒にやるのはやめたということにもなりかねない。完成したものは誰のものかで揉めたりもする。誰がどれほど貢献したのか、どっちがどれぐらい多く書いたか、行数で測るのか、コメントで水増ししてないか? そんなつまらないことで友人と議論したくはない。

さて、友人と2人でもこんな具合なのに、5人とか10人のようなチームになったら、いったい何が起こるのやら?

結局、チームで何かを成そうとすると、リーダーシップは不可欠になる。言っとくがリーダーシップはリーダー1人が発揮するものだと思ったら大間違いで、リーダーシップはチーム全員が発揮するものだ。コントロールの主導権を持つものと、コントロールを受けるものが協力しないと、コントロールそのものが成り立たない。その関係は、お互いを尊重することで成り立っている、はずである。体育会系のヒエラルキーは、そこに年功序列を求めるので自分は嫌いだ。では能力が優れているものがリーダーを務めるべきだろうか? 実は必ずしもそうとは限らない。それは、ご飯を上手に炊けるからといって何でもやってしまう班長が、よい班長とは言えないのに似ている。

よいリーダーとは何だろうか。定義次第だとは思うが、いまどきならばこんな感じだろうか。

  • ミッションを完遂できること
  • メンバーの満足度をなるべく高められること

これを達成するのに、どんな組織構造を取るかは、メンバーの総意があればヒエラルキーだろうがフラットだろうが別に何でもよいはずだ。だがリーダーシップは必要だ。

さて自分は、チームにおいて「誰がゴミ穴を掘るか」は常に重要な問題だと思っている。どんなチームにも「ゴミ穴を掘る仕事」は必ずあるし、頻度はともかく穴を掘る瞬間は巡ってくると思っているのだ。そういうとき、悪臭に我慢できなくなった人が自主的に掘るまでほっておくなどというリーダーシップは、自分は信じない。自分はリーダーをやるのなら「この穴は必要だから、君に掘ってほしい」と命じる権限を担保したいタイプなのだ。むろんその見返りに相応しい褒賞を与える権限がセットでないと困る。この権限を担保しつつ、見かけ上メンバーをフラットにした組織がいいなと思っている。結果公平性はどうせ無理なのだから、機会公平性を保つようにコントロールする方が合理的に思えるのだ。

よいチームを作るために

よいリーダーがいればよいチームができるかといえば、それは話が半分だ。リーダーがいなければチームはできないが、リーダーがいてもよいチームになるとは限らない。メンバー全員がリーダーシップに対して理解があって、協力しあって初めてよいチームになる。なので、実のところそれがヒエラルキーになろうがフラットになろうが、みんながハッピーならどっちでもいいはずだ。ただまあ、年功序列でハッピーな組織というのはもう時代遅れだと思う。いずれにせよ、本当に大事なのはメンバー同士の同意で、これをどう形作るかではないかと思う。