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ネット時代に読むパイドロス

高校生の頃に愛読していた「ご冗談でしょう、ファインマンさん」に、哲学専攻のゼミで「一個のレンガは本質的対象か?」という議論をするエピソードが出てくる。ごく簡単な質問でも、哲学のゼミが紛糾してしまうという、哲学嫌いなファインマン先生らしいエピソードのひとつだ。自分にも似たような経験がある。やはり高校生の頃、とある先輩によくある議論を吹っかけられたことがある。

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「とある大きな森の中で、1本の木が倒れたとする」
「はあ」
「あまりにも大きな森なので、それを目撃した人間は一人もいないのだ」
「へえ」
「そのとき、その木は倒れたといえるか? お前はどっちだと思う?」
「それは倒れたんでしょう」
「……即答だなあ、何でそう思うんだよ」
「だって先輩、最初に木が倒れたって設定しましたよね。だから倒れたんじゃないですか」
「いや俺が言いたいのは、誰も見ていない事象は発生していないとも言えるのではないかと」
「まあそうかもしれませんが、でも最初に『木が倒れたとする』って言いましたよね、だから倒れたんじゃないんですか」

まあ、こんな調子だった。

そういうわけだったので、大学生になって哲学の講義が始まったとき、どんな授業になるのだろうとワクワクしていた。ところがさすがは哲学の先生、そういう学生を前に、最初の講義でこうおっしゃった。

「君たち工学部の学生が哲学に興味を持っていないことは十分承知している。私としても哲学の難しい話で君たちを煙に巻くようなことはしたくない。この講義では哲学と科学は交わらないものではなく、実は一つの繋がった学問だということを示していきたい」

それから先生はいろんな話をしてくれた。そもそも哲学、philosophyとは「知を愛する」という意味であり、博士を意味するPh.D.とはPhilosophae Doctor、Doctor of Philosophyの略であり哲学の延長に科学はあるのだということ。哲学は考えることを科学するのだということ。工学の世界においても、それは重要なはずだということ。

そして取り上げられたのが、プラトンの「パイドロス」だった。

「パイドロス」は、対話篇という形式で書かれている。登場人物が問答をすることで議論が展開していく。「パイドロス」では、ソクラテスという偉大な哲学者と、タイトルにもなっているパイドロスという二人の人物の対話によって成り立っている。

パイドロスはソクラテスに対して、とある話を聞かせる。それは当時流行の弁論家であったリュシアスという人物が作った物語なのだが「自分を恋しているものよりも恋していないものにこそむしろ身をまかせるべきである」という内容なのだ。パイドロスはその話に魅了されてしまい、ソクラテスに熱心に語ってみせる。これが第1の物語だ。

ソクラテスはその話を聞いて、修辞的にはすばらしいと褒める。しかしソクラテスは問題点も指摘し、自分ならば「あれより見劣りのしないようなことを話せるような感じがする」と言ってしまう。それを聞いたパイドロスは、ぜひ聞かせてくれとソクラテスにせがむ。そしてソクラテス流の「恋していないものにこそむしろ身をまかせるべきである」という第2の物語が始まる。

しかしソクラテスは、その話の途中で口を閉ざしてしまう。というのも恋の話としてリュシアスが作り、ソクラテスが真似た2つの物語は「愚かで、しかも少しばかり不敬虔だ」からだ。「エロースはアポロディテの子で、神である」のだから、それが悪いものであるはずがない。それを口悪く言うのはよくない、というのである(なんというか、そういう時代の物語なのだ)。

そこでソクラテスは、「自分を恋していない者よりも恋している者にこそ身をまかせなければならぬ」という話を始める。これが第3の物語だ。

「パイドロス」は、だいたいこのように進む。だが、本の内容はまだ半分だ。残りの半分に渡って、ソクラテスはどのように議論をすべきか、話すこととは、書くこととはどういうことか、という話をパイドロスと対話し続けるのだ。それも、第1の物語を悪い手本として問題点を指摘しつつ、どのようにすべきかを第2、第3の物語で示しながら進める、なんだか意外に実用的な書物なのである(とはいえ会話形式で進むので、いろいろ冗長なところがあるのは否めない)。

たとえばこんな形だ。議論をする上では、語義は大事だということを説明する部分がある。第1の物語では「恋」という言葉について、意味を明確にしていないということを指摘する。そして、恋という言葉は「鉄」とか「銀」のようにすべての人が同じものを心に思い浮かべるようなものではない。「正しい」とか「善い」のように、めいめいが人によって考えを異にし、互いにその意味を議論しあい、さらに自分自身でもなかなか一定の見解をもつことができない、そういう言葉ではないか。そしてそういう言葉を曖昧に使うことは、ごまかされやすく、詭弁術の力が発揮されうるのだ、と説く。

それからソクラテスは、第2と第3の物語を比較しながら、どうして正反対のことを示すことができるのかということを技術的に示そうとする。そして、さらに言論の技術についての説明に及び、当時様々に議論されていた方法、たとえばテオドロスの序論・陳述・証拠・証明・蓋然性・保証・反駁、といったものを上げていく。

……といったように指摘や示唆が続くのだが、興味をもたれた方はぜひ本書を読んでいただきたい。

哲学の講義は、古代ギリシア哲学から始まる長い歴史を経て、科学的方法へと発展していく様を説いていた。その骨子については、正直言って全部忘れてしまったのだが、議論の方法とか科学的検証とか数学的証明とか、そういうものがすべて地続きになっているということは理解した……ような気がする。

冒頭で示したとおり、自分はあんまり議論は好きではない。それよりは一人でコードを書いているほうが好きだし、コンピュータは理屈抜きでコードに従ってくれるので楽である。だが読むこと、書くことは話が別で、そのための技法は学ぶ必要がある。その技法は、古代ギリシアから続く長い歴史の中で作られてきた伝統というものがあり、それをある程度尊重していかないといけないのだというのが、哲学の講義から得た自分の学びだった。

さて。現代において第1の物語「 自分を恋しているものよりも恋していないものにこそむしろ身をまかせるべきである」みたいなテーマは、なんかどこかの掲示板で似たような話がわんさか載ってるよなあという気分にさせられる。「パイドロス」から2000年以上過ぎたというのに、こういう類の詭弁は今も幅を利かせているのだ。特にネット全盛の現代においては、ピンからキリまで様々な文章が出回るようになり、その影響力も増してきている。読む身としても書く身としても、気を付けていかねばなあと思う。

そして、このような言説に対してどう対処すべきかということは、「パイドロス」や、それに続く哲学者が色々な形で示してくれているのではないかと思う。自分はやはり哲学者というより科学者でありたいのだが、結局それは地続きなのだから、しっかり基礎は押さえた上で積み上げていきたいと考えるし、なにしろ「パイドロス」で展開される警鐘は現代でも通用すると実感できるのだから、偉大な哲学を参考にすることは有益なのだ。

ところで「パイドロス」は恋についての物語が収められていることから「美について」などの副題が付くこともある。個人的には恋の話とか神への賛歌とかはどーでもいいのだが、それとは別にぜひ紹介しておきたい特徴がある。この恋というのは、 中年の男性が美少年を口説くという話なのである。さすが古代ギリシアは進んでいたのだなあ。

参考文献